これまで「けものフレンズ2」のストーリーが酷い、1期の劣化版、伏線回収がないのは何故なのか、そのようなことが理解できずに苦しんでいた。いくら何でもそこまで何も考えていないはずはないと。しかし色々な騒動が明るみに出てくるし半ば諦めていた。アニメなんてそんなものかもしれないと。ところがふと気づいた。そしてここに、けもフレ2期は戯曲「ゴドーを待ちながら」のオマージュ説を提唱したい。
戯曲「ゴドーを待ちながら」とは
劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲。副題は「二幕からなる喜悲劇」。(略)不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残し、多くの劇作家たちに強い影響を与えた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ゴドーを待ちながら
だそうです。
共通点
二幕からなる悲喜劇
上の引用で既に分かるように、ゴドーは二幕からなる悲喜劇である。けもフレアニメも、少なくともこのエントリー作成時点では、2期までなので二幕である。というか、今は2期の意味を考えているのであり、今後アニメ3期が始まっても考慮する必要はない。
同じように進行する二幕
「ゴドーを待ちながら」(以下ゴドー)では、1幕と2幕は、同じようでありながら微妙に異なる展開で進行していく。この点でもけもフレと共通する。
人(ヒト)に会うことを求める話
メインの登場人物2人は、ゴドーという人物を待っているという話なのである。けもフレはその逆で、ヒトを探しに行く話であるが、これも1期2期共に行なっており、ゴドーと反対ではあるが、人(ヒト)と会うための行動であることが共通する。
時間軸が不明
登場人物2人が過去も会ったことがあるような描写があるが、それが今の自分たちと同じなのか否か分からないといった感じの不思議な会話をしている。これは、サーバルちゃんが、ミライさん時代、かばんちゃん時代、キュルル時代で同じサーバルなのか不明なのと共通する。
ラッキーさん
ここまでなら、まあありがちな話だから似ててもオマージュとは言い切れないんじゃないかと言える。しかし極め付けはこれである。ゴドーには、登場人物に、ラッキーなる人物がおり、このラッキーは、喋ったり喋らなかったりする。けもフレにもラッキーさん(ラッキービースト)なるキャラクターがおり、ラッキーさんも喋ったり喋らなかったりする。
不条理劇の傑作
以上から、けもフレがゴドーのオマージュではないかと考えた。そしてこのゴドーは、不条理劇の傑作らしい。よく考えれば、「ポプテピピック」も、二幕というか1回の放送を2つに分けて、同じようなというより同じ映像を異なる声優で「再放送」するという、ゴドーオマージュと言えなくもない作品だったし、「ポプテピピック」も不条理アニメだった。そして、けもフレ2期もゴドーオマージュと考えた場合、2期は不条理アニメとして考えるべきだとの結論に至る。
不条理アニメということならば
けもフレ2期が、ゴドーのオマージュで、不条理アニメということであれば、2期が、1期の劣化版と思えるのはゴドーの形式を踏襲したもので、伏線回収がほとんどないのは1期において綺麗な伏線回収を見せられた視聴者に対する不条理な展開の提示だったのではないだろうか。つまり、伏線は基本的には投げっぱなし、前回ラストの煽り気味の危機的状況が、次の回で何事もなかったかのようにあっさり解決するということを意図的に行なっていたと。
ゴドーオマージュと言えば理解できなくもない
こう考えると、けもフレ2期のストーリー上の批判の多くは、不条理という言葉1つで説明できるものになる。単に不条理アニメだからと言うだけでは、ポプテピピック並みに表現しないと理解されないだろうが、「これはゴドーオマージュなのだ。ちゃんとそのことを匂わせているでしょう?」と言えば、なんとなく理解できなくもないのではなかろうか。その際、ラッキーさんが決め手になる。
残る疑問
けもフレとゴドーの共通点で、ラッキーさんが決め手であると考えるのだが、ラッキーさんは、1期から登場しているキャラクターなのである。また、待つ、探しに行くの対比も1期からのものである。そうなると、この2期の不条理さ、ゴドーオマージュは、監督交代前に構想されていたことにならないだろうか。つまり、監督交代がなくても、2期はあんな感じだったのではという疑問が残る。
ベターな選択
逆に監督交代後に2期のストーリーを考えたというのであれば、これをゴドーオマージュということにして、ストーリー展開は不条理さ満載(伏線張り放題で未回収し放題や中国遊具即組立や護送車収容即破壊、海中転落後即浜辺救出等)で行くことを思いついた人がいたことになる。その人は評価されるべきではないだろうか。1期監督の癖のあるストーリーテリングを引き継ぐ2期の進め方の方法として、ベストではないかもしれないがベターな選択であったはずであるのだから。
なぜ種明かしされなかったのだろうか
特に投げっぱなし伏線を1期のパロディとしたのは大発明である。そういうことであれば、1期の優しい世界が2期ではギスギスした世界になっていると言われた理由も説明がつく。ゴドーがキリスト教に対する皮肉がきいているのと同様に、1期のパロディであれば風刺もきかせるだろうということで。
しかし、見たところ2期がゴドーオマージュの不条理アニメなのだと言っている人はいないようである。なぜなのだろう?さすがに制作側から言うのは憚られたのかもしれないが…ちゃんと明かされていれば、多くの視聴者の2期の見方も変わったかもしれない。