マンガ・アニメ作品の「球詠」は、なぜ「球読」ではないのか。通常は、「よむ」という言葉は「読む」と書くことが多い。それを「詠む」としていることに意味はあるのか。これについて考える。
「球詠」の設定
幼馴染が高校で再開しバッテリーを組むという、まあ、それほど目新しくはない設定。そして、投手の名前が「武田 詠深(たけだ よみ」、捕手の名前が「山崎 珠姫(やまざき たまき)」。つまり、捕手の「たま」と投手の「よみ」の組合せがこのタイトルになる。
「球」と「珠」
「たま」は、名前では真珠等を主に表す「珠」であるが、タイトルでは野球のボールを表す「球」ではあるが、共に球状のものを表す言葉であるので、その差異は問わないこととする。
「詠み」について
では、このタイトルが「詠」であって「読」ではないことについて考える。
通常、野球において、「球をよむ」と言えば、「読む」が用いられる。これはどういうことを表すかというと、バッター視点で、バッテリーが次にどのような球を投げてくるかを予想することを指す。つまり、「球を読む」というのは、打者が、投手の投げる球を予想することを意味する。しかし、このマンガは、投手と捕手を軸にした物語である。つまり、主人公から見たストーリー展開は、打者視点ではない。ここで、タイトルにひと工夫がなされている。「詠む」という言葉は、ある事柄を和歌や俳句で表現する際に使われる。この「表現する」に着目すると、「球詠」に詠の字が用いられる理由が分かる。つまり、バッテリーが、試合状況及び現時点のカウントを元に、次に投げる球を決定し投げる、この一連の行為をバッテリーにおける投球の表現として捉えているのである。投手、捕手いずれかのみではなく、両方の名前が組み合わさって初めて完成する意味。よく出来たタイトルとしか言えない。