アニメ成分補完計画

感想やまとめとは違う分析的なもの

【フルバ2nd】ep.25 「…俺はもう、違うんだ」


2ndシーズン最終回。漫画原作を知っている人は、2ndシーズンがここで終わることに愕然とされた方も多いと考えられます。アニメ版と比べマンガ原作は、衝撃の事実を出すタイミングが早い。まず事実を誰かに言わせたりして突きつけ、その後でそれを説明的にエピソードで描いていく。一方、アニメ版は、明示的な事実の突きつけをせず、エピソードで語っていくスタイル。特に2ndシーズンの終わり方は、マンガ版を踏まえた上で、第3シーズンまでの時間的空白を考えた話の進め方を考えられていると言える。

雀のくだり

進め方が巧みなのは、酉憑きの紅野が物の怪憑きから解放されていることを、透の周りにいた雀が紅野が近づいたら、一斉に逃げ出したことで描いている点である。これ、透が近づいても雀は逃げるどころが近づいてさえいるところがポイント。透は「人なつっこくていらっしゃるのですね…っ」とさえ言っている。透は、物の怪付きではないのに、憑き物の落ちた紅野よりも物の怪付き側に立っていることを表している。

「慊人」と書いて「あのこ」と読む

マンガ原作では、紅野が透に慊人とのことを話す際、「慊人」という漢字に対し、最初は「あきと」しているが、途中から「あのこ」とルビを振っている。同じ文字に対し異なるルビというこの微妙さ。アニメではこの微妙な表現はできないので、普通に「あきと」「あのこ」と呼ぶことになる。だからと言ってアニメ版の方が表現上の効果が薄いということはなくて、逆に耳からくる情報の変化、「あきと」から「あのこ」に変わったことに対し、ピンときて、何かが起きたと感じることができる。視覚的に見せられるよりは、おそらくインパクトが低いが、しかし何か違和感を覚えることができる、この微妙さ。これが、慊人が女の子であるという衝撃の事実の提示の際に効果を生む。マンガ原作では、視覚的であるし、アニメと違い、そこで止まって何度も読み返すことができるので、アニメと比較すれば強い違和感で衝撃の事実に接することになる。このマンガ原作とアニメとの表現の違いによる慊人が女の子であるという事実の提示の仕方は、なかなか面白い。

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慊人とありさ

十二支という深い因縁と偶然2回会っただけの絆の比較と選択を紅野は求められ、深い因縁を選んだ形に見えるが、これ、相手への同情から結婚したが、その後、心から惹かれる相手に出会って苦悩するよくある恋愛ドラマのパターンに重なる。この段階では紅野は不倫パターンには堕ちずに乗り切った形である。

紫呉の冷たさの由来

初登場以来、紫呉は、飄々として軽口を叩きながら生きているようで、度々十二支に対する冷たさを見せていた。このギャップは、紅野が比較的若い時期に物の怪憑きの呪縛から解放されていたことに薄々気づいていながらも、自らは囚われから解放される方法も分からないまま大人になってしまっていることに対する、歪んだ感情から来るものであろう。

物語の根幹をなす重要な事実の先送り

フルーツバスケットという物語の構成上、非常に重要な事実の提示をマンガ原作対比、後出しすることになったのは、マンガ原作より事実の提示を遅らせるアニメ版の流れに沿っていることと、アニメ版ではここで2ndシーズンが終わるので、このタイミングでは慊人が女の子だったという話の提示のみで止めることが良いと判断されたのだろう。これはおそらく妥当な判断。