アニメ成分補完計画

感想やまとめとは違う分析的なもの

【ハグプリ】プリキュアを辞めるプリキュア


はなもいじめから逃げ、はぐたんもクライアス社から逃げている。このような行動様式を見せるハグプリを見ていると、プリキュアさえも、やりたくないと思ったらやめて良いんだよと言われる気がして来た。これはどういうことなのだろうか。

辞めるプリキュア候補とその理由

ハグプリの展開を見ていると、プリキュアを辞めるプリキュアが出てくるのではないかと考える。辞めるのは、キュアアンジュとキュアエトワール。理由は以下の通り。

①当初の設定によるもの

さあやとほまれには、最初から秀でた才能がある設定で、今も、その才能を磨く努力をしている。これまで、翼が生えたのは、この2人のみで、彼女らは、その分野で大成することが確定している暗示と見ることができる。また、どちら分野も、その道を極めるには、他のことを犠牲にして高みを追い求める必要がある分野である(まあ、俳優の場合、そうでない人も多そうであるが)。このため、プリキュアなんかをやりながらでは、極められない可能性がある。

②プリキュアとしての才能の限界の自覚

さあやとほまれは、プール回において、はなが、プレジデント・クライとのことを引きずっていた際に、それを察することさえできなかった。のみならず、ほまれは『はなは、はなだね』と言ってしまっている。明らかにはなは、プリキュアとしてどうあるべきかを考えるステージにおいて、プレジデント・クライとの関係も考慮に入れているのに対し、さあやとほまれの2人は、これまで通り、目の前に現れた敵を浄化することのみを考えている。はなは、目の前のオシマイダーを見ながら、背後のプレジデント・クライを見て歯ぎしりしている。
この差は、これからの戦いにおいて、ズレを生じさせる可能性が高い。

ニュータイププリキュアの誕生

一方、新人のえみるとルールーは、ここで、変身せずにオーラを帯びて、オシマイダーと対峙するという行動に出る。明らかにニュータイププリキュアである。因みに、ほまれは、プリハートを悪かった時のルールーに盗まれた際に、生身でオシマイダーに向かおうとして、ハリーに止められているが、えみるとルールーのことは誰も止めない。やはり、ほまれとえみルーの差はある。はなも、この2人を期待に満ちた顔で見る。
えみるとルールーがニュータイプなのは、戦闘を見てもわかる。猛オシマイダーが体当たり攻撃を仕掛けた際に、マシェリとアムールは、連続バック宙で避けるが、エール、アンジュ、エトワールは、プリキュア伝統の技、"力を合わせてこれを受け止める芸"を披露する。プリキュア史におけるごく初期からの伝統芸。かれんさん…のコスプレの人?がちゃんと持てよのあの有名なシーンね。これが、ハグプリにも受け継がれてて感動。(一応みんなちゃんと押してるしね)ここで、エール、アンジュ、エトワールの3人は強烈なオーラを発するが、これは伝統的プリキュア芸であり、変身前にオーラを発するえみるとルールーの革新性と良い対比になっている。

辞めることとテーマとの関係

なんでもできる、なんでもなれるがテーマであるが、人は、いつか、その選択肢の中から選択する。そして、プリキュアとしての才能が無いことを、才能の世界に生きる2人が悟らないわけがない。このため、どこかのタイミングで、2人はプリキュアを卒業するのではないかと思う。はなどころか、えみる、ルールーに翼が生えない理由もここにあるのではないだろうか。
翼は、その道を極め、第一人者になることが約束された才能があることに加え、無心でそれに取り組み何かを得ることで、初めて生えるようであり、どちらが足りなくとも生えない。
一方、ルールーの有する情報分析力も、えみるのリスクマネジメント力も、それのみを極めることが目的となるものではない。何かをするための手段である。この点、演技やスケートの才能とは異なるし、プリキュア活動においても、情報分析とリスクマネジメントは、高い重要性を持つ。

プリキュアの王道を行く

そして、過去のプリキュアで散々見てきた、普通の生活では全く取り柄のないピンクが、プリキュア界では、超エリートという王道を、このハグプリでも、はなが歩むのである。
翼は、ある場所から、さらなる高みへ巣立つために必要なものである。また、そのために、今立っている場所を離れることになる。いつかは分からぬが、ハグプリから、キュアアンジュとキュアエトワールが巣立ち、キュアエール、キュアマシェリ、キュアアムールと、もう1人だれかの4人構成になるのではないだろうか。それが最終回までに生じるのではないにしても、暗示されるとかはあるのではないだろうか。
今、プリハートは5個あるが、これがハリーの言う4個のプリハートに再度収束し、その過程で、メンバー交代があるというのも、なんでもありのハグプリとして、ありうべきことなのではと考える。